コラム

ああ格差社会 第4回

人間には2種類ある。「労働でお金を得る人」と「名前でお金を得る人」だ。
前者は、労働の対価が賃金であり、労働と賃金はどこまでいっても1:1の関係でしかない。一方後者は自分が持つ知識や技術、名声などがその人固有の価値となり、資産は倍々ゲームで増えていく。
これが、日本を格差社会たらしめている原因である。誰も日本には格差があるなど大っぴらに公言しないが、現実問題、それは存在する。そしてその格差は、子ども社会において如実に現れている。
東京・千代田区に住む筆者は、“超富裕層”のひとりである。その著者の子どもの、無邪気かつ非常識な発言などから、日本の格差社会を浮き彫りにする今シリーズ。連載でお届けする。

 

フカヒレ
地方の子

そんなものがこの世に存在することを知らない。

都市部の子

存在は知っているが、まず食べたことがない。

都心の子

どこのお店のフカヒレが美味しいか知っている。

私が最初にフカヒレを食べたのは、確か33歳の頃であったように思う。「日頃の仕事の御礼」ということで、お客様に連れて行かれて始めて食べた。というより、「初めて見た」という感覚のほうが正しいのであるが、それは三日月状の形をしていた。色は黄金色で、スジがたくさん入っていた。そして、食べてみると、本当にうまい。人が見ていなければ、皿まで舐めたところだろう。そうして、「今まで食べていた中華料理というのは、一体なんだったのだろう?!」と、本当にそう思った。
もともと私は理系であったので、食べることには何の興味も無かった。ただ命を繋ぐためだけのものと思っていたし、食を楽しむなんてことは考えたことも無かった。つまり、自分にとっての食事というのは、単なる“燃料”であり、“栄養源”に他ならなかったのである。当然のことながら、「美食にふけって、家の財産を食い潰した」なんてことはまったく信じられず、そんなやつはどんなに大馬鹿者かと、心の底からそう思っていたのである。
ところが、こんな自分が”味”に感動した。

このようなフカヒレは、最初にこれをご馳走してくれた紹介者にとってみれば、たまたまご馳走しようとした上海蟹のついでに頼んだようなものであった。むろん、上海蟹なんて、それまで名前すら聞いたことがなかったのである。けれども、こうして私のグルメ人生が始まることとなった。
ただ、この話の要点は、この方に紹介されるまで、上海蟹やフカヒレといったようなものは、目にしたことがなかったということである。ついでながら、北京ダックやツバメの巣も、名前だけは聞いたことがあったが、それが一体どういったものなのかは、想像すらつかなかった。おそらくこれらは、この方に紹介していただかなければ、一生涯、口にすることはなかったのではないかと思われる。「交友関係」がモノを言うとは、そういうことである。
こういう高級料理というのは、確かに自ら進んで食べることもあるだろう。けれども実際には、自ら開拓して食べるというよりは、誰かに紹介されてその存在と味を知ることのほうが、はるかに多い。周囲を見てみても、自分自身を振り返ってみても、新規なレストランを積極的に開拓をすることはあっても、新規な食材や料理を進んで試してみるというのは、よほどの食通でもない限り、そうないものである。実際の話、ツバメの巣なんかを食べていると、「こんなもの。最初の人は、よく食べる気になったよねぇ~」と、最初に食べた人の賛辞が出る。
考えてみれば、ツバメの巣などは、断崖絶壁に存在するものを、命がけで捕るのである。それがもし、凄く高級なもので、命すら賭ける価値があるということが分かっている状態なのであるのであればともかく、そうでない状態でそれを取ってきて食べるというのは、並大抵のことではない。料理として頼むときだって、似たようなものだ。なぜなら、千円や二千円で食べられるものではないのである。一皿で一万円とかするわけである。一万円あればそれなりのコース料理が味わえるというのに、誰が好き好んで、わけもわからない料理など頼むものか。少なくともこの私は、社会人になり、給与をもらって生活し始めたときもそう思ったし、独立してお客様からお金をもらうようになったときだって、「そんなものに使うのはもったいない」ということで、自ら進んでそれらを注文することなど考えられなかった。
そしてそれは、田舎に住んでいた私の両親も同じである。高い料理、高級料理を食べることなど、もってのほか。確かに美味しいかもしれないが、栄養素が同じなら、安いほうが良い。そういう考え方である。そしてそういった考え方が、そのまま「地方の子」の考え方として染みつく。私が高級料理を食べなかったのは、理系だったので食通に興味が無かったというのではなく、地方で生まれ、地方で育ったがゆえに、「高級料理を食べるなど、もってのほか」「食通は、悪」という考え方を植え付けられてしまったからではないかと、今になってみればそう思う。

「都市部の子にしてみれば、高級料理を味わう機会がまったくないというわけではない。都心の人間に接することもあるし、誰かを歓待する場合に高級料理を振る舞うことがあるからだ。そしてまた、当の父親が、仕事上で、接待用にということでいくつかの高級料理店を知っている。そして、その中で本人も気に入ったものを、結婚記念日とか誕生日、合格祝いとかの家族の特別の日のためにとっておき、家族に振る舞ったりするのだ。その中にはもちろん、フカヒレやツバメの巣が入っていたりするであろう。
そして、「都心の子」というのは、その頻度が極限にまで高められた結果として、望めばいつでも気軽に行けることになってしまう。だって、そうだろう。「都市部の子が、あれが美味しかったから、ということで父親にせがんだとしても、その父親は、それが高級(すなわち高価)でめったに行けないものであると知っている。記念日にだけ行くのだ、という事情なのだから、「あそこはねー。そうそう気軽に頻繁に行くところじゃないんだ。次にまた良いことがあったら、行こうねー」などと言って子どもをなだめる。とは言っても、当の父親だって、自分のお気に入りなのであり、お金さえふんだんにあれば、自分だけでも行きたいと思っているのだ。
しかしながら、「都心の子」にとって、そんな制限はない。その父親にとって、経済的な縛りはほとんどないのだから、土曜日や日曜日の夕方に、「今日は、何を食べたいの?!」と聞かれれば、「このあいだ行った、あそこのフカヒレが食べたい」と答え、「じゃあ、行こう!」ということになる。
そう、フカヒレというのは、お店によって味が異なるのだ。下手な店に入ると、ゴムを喰わされているようで、全然美味しくない。けれども、高級中華料理店同士でも、味は微妙に違う。これは、回数をこなしている者でなければ分からない。ある時に、車内テレビを見ていた娘が、グルメ特集の番組でフカヒレが出てきたのを芸能人が美味しそうに食べているのを見て、「ああ、あれはこのあいだパパが連れて行ってくれて食べさせてくれたものだね。でも、あのお店のよりは、○○飯店のフカヒレのほうが美味しいんだよね」と言ったときに、運転手が苦笑いしていた。
そうして、こんな贅沢をして過ごしている子どもは、将来どうなってしまうのか。そんなものが二度と食べられないような生活になり、そうなったところで「昔はよかったなぁ……」と懐古することになるのだろうか。これに対して、実は私は、そうは思わない。美味しいフカヒレをご馳走して、喜ばない客は、まずいないのだ。それは日本人に限られず、中国人はもちろんのこと、フランス人やドイツ人、アメリカ人だって、たいそう喜ぶのだ。なので、こうした食通の付き合いを通じて、親以上に広いネットワークを持ちながら生きていくに違いない。やはり、格差というのは、縮まらないと思う。

ところで、エイとサメは、同じ軟骨魚類である。その振る舞いも、何となく似ている。けれども、サメのヒレであるフカヒレが高級食材であるのに対し、エイヒレはどこでも食べられる“酒のつまみ”である。そしてその地位や扱いというのは、逆転するどころか、縮まる気配すらない。
このことを考えるたびに、なぜか、逆転しようもない格差社会のことが頭に浮かび、しばらくの間は頭から離れないのである。

 

著者名
匿名寄稿

■プロフィール

千葉県の農村部出身。現在、東京都千代田区永田町周辺に在住。
某士業に就き、実績は国内外1000件以上。
東京の一等地にオフィスを構え、業界屈指の雄としても知られている。