コラム

ああ格差社会 第5回

人間には2種類ある。「労働でお金を得る人」と「名前でお金を得る人」だ。
前者は、労働の対価が賃金であり、労働と賃金はどこまでいっても1:1の関係でしかない。一方後者は自分が持つ知識や技術、名声などがその人固有の価値となり、資産は倍々ゲームで増えていく。
これが、日本を格差社会たらしめている原因である。誰も日本には格差があるなど大っぴらに公言しないが、現実問題、それは存在する。そしてその格差は、子ども社会において如実に現れている。
東京・千代田区に住む筆者は、“超富裕層”のひとりである。その著者の子どもの、無邪気かつ非常識な発言などから、日本の格差社会を浮き彫りにする今シリーズ。連載でお届けする。

 

誕生日のプレゼント
地方の子

ゲームか玩具

都市部の子

普段は手にしない高価なもの

都心の子

何らかの意味で教育的に良いもの

誕生日のプレゼントとして与えられるのは、地方の子の場合には、まず大抵はゲームか玩具の類である。これは、当の子供たちが欲しがるからというのもあるが、親のほうでも、プレゼントというのは、そういったご褒美的なものだと思っているからである。また、親のほうとしては、そういったものを与えておけば、その後の育児の手間が軽減されるといった打算もある。
都市部の子が誕生日のプレゼントとして与えられるのは、普段は手にしない高価なものである。それは、年に一度しかない誕生日なので、いつもは手にできないような高価なものをあげたいという親心がそうさせるのである。
都心の子の親は、誕生日のプレゼントとして、何らかの意味で教育的に良いものを与える。実は、高価なものや必要なものは、日常的にあげているので、誕生日だからといって特別に高価なものを与える必要などないからである。実際、誕生日に挙げるものが、普段買ってあげているモノよりも安いことはざらである。

さて、ここまで見て何か思うところはないだろうか。そう、地方の子の親というのは、子供が欲しがるものを与え、都市部の子の親は、高価なものを与える。都心の子の親は、子供が欲しがるものも、高価なものも与えないのである。子供が欲しいもの、必要なものを、十分に考えた上で、教育的に必要なものを吟味して、プレゼントを選ぶのである。
さて、「ご褒美って何なのだろうか?!」ということを考えたことがあるだろうか。例えば、ダメ社員の典型として、「今月はよく働いたから、そのご褒美に今日はサボろう」と考えたりする。ダイエットに失敗する人は、「ここ2~3日はよくダイエットしたから、そのご褒美に今日は甘いものを食べよう」と考える。こういった“ご褒美”を考える人で成功する人はまずいない。
地方の子の親は、子が欲しいものをそのまま与えている。その子は、よく勉強した後のご褒美として、ゲームをする。こういった習慣を子供につけさせることが、本当にその子のためになるのだろうか? しかもこの親は、一石二鳥を狙ったのかもしれないが、自分の育児の手間が軽くなることを期待している。これが本当にこの子のためになるのだろうか?
では、都市部の子の親であるが、高価なものを子供に与えて、子供にいったい何を期待するのだろうか。高価なものをもらった子供は、それを一体どうするというのか。たまにもらった高価なものというのは、意外と使い道がないものなのである。ただ、”ご褒美”という点では、ゲームや玩具のように、さぼるための道具や遊ぶためのものよりは、はるかにましであろう。
けれども、都心の子の親は、自らのビジネスによって知っている。「マネジメントの基本」というのは、「取組の姿勢や努力する様子をほめて、結果を評価する」というものであることを。これは一般には逆に行われ、「取組の姿勢や努力する様子を評価して、結果をほめる」という上手くいかないマネジメントが一般的には行われる。
例えば、受験一つをとっても、褒めるべきは挑戦する姿や、努力する姿勢であって、合格したという結果ではない。合格したという結果をほめれば、それを最高位だと勘違いして、入学後は下降が始まってしまう。また、努力に対して努力賞を与えると、結果を出さなくても満足する子供にしてしまう。
都心の子の親は、努力する意志や姿勢が大事であるということで、百科事典や電子辞書、筆記具など、努力に必要なツールを与えたりするのである。こうした事象一つをとっても、格差というのは、そう簡単に埋まりそうも無く、ただ広がるばかりのように思える。

 

著者名
匿名寄稿

■プロフィール

千葉県の農村部出身。現在、東京都千代田区永田町周辺に在住。
某士業に就き、実績は国内外1000件以上。
東京の一等地にオフィスを構え、業界屈指の雄としても知られている。